- 東ローマ帝国(いわゆるビザンティン帝国)は実は連続するローマ帝国であり、歴史家の創作された呼び方に過ぎないという主張から始まる。
- 西ローマの衰退と対照的に、東ローマが2,000年近く存続できた理由を、統治体制、宗教、都市政策、軍事戦略など多角的に分析する。
- 権力の暴力性、内戦、疫病、経済危機の中でも帝国が生き残った仕組みと、現代への教訓が示唆される。
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「ビザンティン帝国」という造語—なぜローマ帝国と呼ぶべきか
カルデリス氏の基本的主張は、後世の歴史家が東ローマを「ビザンティン帝国」と命名したのは、実は歴史的根拠がなく、当時の人々も法的にも文化的にも自分たちを「ローマ帝国の市民」と認識していたというもの。これは単なる用語の問題ではなく、帝国の正統性と連続性の理解を左右する。コンスタンティノープルへの遷都もあれど、制度や自認は途絶えず、むしろ西ローマが分断されても東ローマが帝国の本流を保ち続けたという視点を示唆する。
3世紀の危機—26人の皇帝が50年で殺される混乱の時代
ローマ帝国が直面した最大級の危機として、3世紀の『皇帝殺害時代』が描かれる。26人の皇帝がほぼ全員、軍隊によって殺害される中、ハイパーインフレ、経済崩壊、疫病が同時発生。この時期、皇帝は軍の代表を兼ねるが、その軍自体が政権交代の主体となる悪循環に陥る。にもかかわらず帝国が完全に瓦解しなかったのは、地方自治と税制の仕組みが根強かったからと考えられる。カルデリス氏は東ローマが軍事独裁制ではなかったことの根拠として、軍隊が社会統制の道具として日常的に使われなかったことを指摘。
コンスタンティノープルの劇的な成長—僅か200年で25,000人から500,000人へ
西ローマ衰退後の東ローマ繁栄の象徴がコンスタンティノープルの都市化である。コンスタンティン帝が建設した新首都は、古代都市の自然減少(毎年1~3%の人口損失)を打ち消すほどの移民を誘致した。その吸引力の源は、引っ越した2,500人の元老院議員と彼らの従者(保守的に見積もって各30人)が形成したコミュニティ、そして最大20万人を対象とした穀物配給制度(パン配給)にあった。この政策は単なる福祉ではなく、都市の成長と経済活動の好循環を生む戦略的施策だった。
ローマ帝国が生き残った理由—多様な統治手法と適応能力
カルデリス氏が開いている新著のテーマは『なぜ東ローマは2,000年近く続いたのか』という分析的な問い。その中核には、権力の集中と分散のバランス、官僚制度の安定性、宗教(特にキリスト教化後)の統合機能、そして外交・軍事の柔軟な対応があるとされる。西ローマが蛮族侵入で崩壊した一方で、東ローマは地政学的に困難な『帝国建設の主要回廊』の中心に位置しながらも、様々な脅威(ペルシア、アラブ、オスマン)に対して高度な適応を示した。長期存続の秘訣は、単一の要因ではなく、制度と人的資源の多層的な活用にあった。